広島駅南口から歩いて5〜6分。京橋町
上流から流れてきた川がここで右と左に分かれる。
右(手前)が猿猴川、向こう側が京橋川
市内を流れる六つの川のうちの一番目と二番目
分かれ目のとっさきに何やら謎の石碑を発見。○○奉行と読める。
江戸時代に奉行所でもあったのか…?
広島ブログ
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今日から労働しています。連休中も出ベソの虫が騒いでいましたねー。
私は日頃出来ない部屋の整理をし、5/5には広島空港に行きました。(こどもの日は送迎デッキが無料開放されます)
空港が大好き母娘は空港に行っただけで旅行した気分に浸りました。←何とも安上がりな母娘。
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母娘で空港見学とは微笑ましい(^^)
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あああありがとうございます!m( )m
■天正19年(1591)・・・毛利輝元による広島城の築城
■慶長 5年(1600)・・・毛利輝元が関が原の戦いに敗れ周防・長門(現在の山口県)に封じられ、福島正則が領主となる
■元和5年(1619)・・・福島氏が広島城無断改修の罪で転封され、浅野長晟が新領主となる
■明治4年(1871)・・・廃藩置県により広島県広島区となる(その後1889年に市制に移行) さて、広島はデルタ地帯に発達した土地がらから、古くより数々の洪水に見舞われたため、大田川の治水は歴代の為政者の大きな課題だったようで、上記の浅野氏の時代だけでも、寛永9年(1632)に「堤防取締令」を出し堤防の保護を命じていますし、寛政9年(1797)には「防水についての藩令」を出して藩士に平時の堤防保護と出水時の出動規定を定めていたようです。 ここで、謎の石碑の碑文をよく見ると・・・ 「享保二年三月 奉行」となっています。埋没部分は不明ですが見える範囲にはこれしか書いてありません。 享保年間と言えば1716年から1736年ですから石碑が建てられたのは1917年のことになり、前出の浅野氏の統治時期で「取締令」と「藩令」のほぼ中間辺りに位置します。 また、勘定奉行等ではなくて、年月の後に行を変えてただ奉行と書いてあります。「奉行」という言葉を調べると、“平安から江戸時代にかけて武家における職名の一つ”の後に“元来上司からの命令に奉じてそのことを執り行うことを「奉行する」といい動詞であった。後にその担当者のことを言うようになった”とあります。(by Wikipedia) 以上のことを踏まえると、年月しか書いてないことと、ただ「奉行」としか書いてないこととを考え合わせると、浅野氏の時代の治水事業の記念碑であって「奉行は」元来の執り行うという意味であり、現代風に表記すると「享保2年3月 施工(または竣工)」となるのではないか。以上が私の推理ですが、あくまでも素人の推測ですからくれぐれも鵜呑みにしないよう念のため(^^)v
「奉行する」という動詞であった。…なるほど。非常に勉強になりました。